おいしいってなんだろう。
人それぞれいろんなおいしいがあるけど、僕にとってのおいしいはたいていこの2つに集約される。
① なつかしくておいしい
② 作る人が好きだからおいしい
①はつまり「思い出を食べる」ということで、②は「人を食べる」(!)ということ。舌の上のことだけじゃなくて、感情も含めての「おいしい」なのだ。だから名店や流行りのレストランにも行くけど、心からおいしいな〜と思える店は実はそんなに多くない。
豊洲市場にある「魚がしトミーナ」は、その多くはない店のひとつだ。

築地に市場があったころ、場内に入るのはちょっとした冒険だった。場内は飲食のプロたちの仕事場で、仲卸で働く人や買い出しに来た料理人たちが、急ぎ足で行き交う場だったからだ。
ターレーと呼ばれる小型の運搬車が、ものすごいスピードで走っていて、注意していないと轢かれてしまう。でも轢かれても文句は言えない。だって一般人は本来は入ってはいけないエリアだったのだから。そんな身の危険を感じながらの冒険だった。
冒険に発見は付き物だ。
そんな築地の場内でトミーナを見つけた時のことは、今も鮮明に覚えている。カウンターだけの狭くて古い店なのに、ズワイガニのカルボナーラや、海鮮のピザの驚くほど贅沢なこと!
そして目の前でピザを焼いているスズ子さんを見た時の、「エッ、このおばあちゃんが焼くの!?」という驚き! それはたぶん10年くらい前のことだったはずだけど、すごい宝物を見つけたような気持ちになった。
それ以来、友人や家族を連れてお店にうかがったり、取材でお世話になったり。
そうそう「まいう〜」の石塚英彦さんに、巨大なワタリガニの載ったトマトクリームパスタを食べていただいた時は、「うわー!すげーなこれ!圧倒的な蟹の迫力で、パスタが上空からは見えません。蟹がパスタ食べてるんじゃないですか、これ?」と名言をいただいたこともありました。

おっと、トミーナとの思い出を語り出したらキリがない。そろそろ今日の主人公のスズ子さんにご登場願わなくては。
お客さんは自分の焼くピザを食べに来るというプライド
スズ子さんはトミーナのピザ焼き職人。75歳(!)のころからもう20年もピザを焼いている。
2018年に築地から豊洲に移転後も、変わらず店がオープンする朝11時から閉店の3時まで、ずっと立ちっぱなし。それでもコロナの影響で、 最近はピザを焼く枚数が少なくなっていると嘆く。そんなスズ子さんの焼いた海鮮ピザは、たっぷり載せたエビやイカ、ズワイガニや貝類のジュースが軽いけどしっかりとした生地に染み込み、それはそれはまいう〜なのだ!
僕「ピザに対するこだわりってなんですか?」
スズ子「ない!」
僕「 じゃあ、我ながらよく焼けたなと思うことは?」
スズ子「そんなのない。ありっこない!」
とはいえ、スズ子さんには自分の焼くピザしかお客さんは喜ばないという自負もある。
ある時、孫の晶行さんが忙しいスズ子さんに変わってピザを焼いた。厨房に戻ってきたスズ子さんは、お客さんが自分が焼いていないピザを食べているのを見て、それを回収して新たに焼き直した。晶行さんもイタリアで修行した立派なイタリアンのシェフなのにだ。スズ子さんは知っている。お客さんは自分のピザを目当てに来てくれることを。
「遠くから来てくださる方もいらっしゃるんですよね。新幹線 に乗って来てくださるお客さんもいますから。そういうお客さんにおいしいって言われるように作らないといけないですよね、商売ですから」
スズ子さんはよく「商売 」という言葉を使う。その言葉に年齢を言い訳にしない、プロの責任感とプライドが感じられるのだ。




子育てをしながら、独学の婦人服作りで多忙を極める
スズ子さんは1926年(大正15)に、長野県の上田市に生まれた。時代はちょうど大正から昭和に変わる年で、激動の昭和史の入口だった。太平洋戦争が激化する時代の東京で、空襲を受けたこともある。
「上野駅の地下街にみんな避難したんですけどね、どんどん詰め込まれて、押されて押されてね、一番奥の人が『息ができなーい!』なんて叫んでましたけどね」
終戦の翌年にスズ子さんはたった1人で東京に出てきた。20歳の時だった。焼け野原の東京には、別にそれほど驚きもしなかった。生活に一生懸命で、食べて行くことが精一杯の毎日に、 自分の将来を考える余裕もなかった。
そんな時代に夫となる人と出会った。結婚して子供が生まれると、夫は「これからはみんな食べるもの、着るもの、住むところの3つに関わる商売がいいぞ」と考え、紳士服の学校に通ってテーラーになった。日本橋にほど近い宝町に店を作った。店は繁盛して、忙しくなった。
当時はあらゆるものが不足していた時代で、洋服も既成服などなかった。スズ子さんも子供のために服を手作りして着せた。その仕上がりが評判になり、ある日雑誌の切り抜きを持った若い女性が「こういうの作ってくれない?」と注文にやってきた。スズ子さんは雑誌『装苑』を見ながら独学で婦人服作りを学んだ。誰に教わるわけでもなく、雑誌に載ったおしゃれな服を一生懸命型紙に起こし、布を買ってきて縫う。 評判がまた評判を呼び、仕事は多忙を極めた。
「当時母はものすごく忙しくて。一晩したらただの生地だったものがオーバーになってるんです。徹夜ですごいスピードで作ってたんですね」(娘の節子さん)
節子さんが小学生の時、母と2人で銀座の地下街を歩いていたら、スズ子さんが柱の影に隠れた。向こうから自分の縫った洋服を着た女性が歩いて来るのが、恥ずかしくて見られなかったのだ。
ところがスズ子さんは節子さんの結婚を機に、スパッと婦人服作りをやめてしまう。ずっと行きたかった海外旅行に行くことにしたのだ。戦争と戦後の混乱の中必死に生き抜いたスズ子さんにようやく訪れた、46歳の自由と青春だった。

海外旅行で使ったお金は家2軒分
46歳で旅行を始めて86歳でアフリカの象牙海岸に行くまで、40年間でスズ子さんが訪れた国は100カ国(!)を数える。
最初は普通の観光旅行でヨーロッパなどを訪れていたが、だんだんと中東やアフリカ、南米などの秘境旅行にハマっていった。
サハラ砂漠を車2台で横断した時は、そのうちの1台が故障して動かなくなり、残り1台が助けを呼びに行く間、一晩砂漠に取り残されたこともあった。アマゾン川の源流を遡った時には、毛布の上から巨大な蚊が刺してくるような、黄熱病の危険がある所にも行った。アパルトヘイト時代の南アフリカでは、黒人差別の過酷さを目の当たりにした。でもスズ子さんは「怖いなんて思ったことない」と涼しい顔をして言う。恐怖心より、行きたいという好奇心の方が勝っていたのだ。
孫の晶行さんがまだ子供だったころ、アフガニスタンでタリバンがバーミヤンの仏像を破壊するニュースが流れた時のことをよく覚えている。
「(スズ子さんが)テレビでニュースを見たら、『馬鹿野郎、遺跡ぶっ壊しやがって!あそこには素晴らしい遺跡 があるのに、全部爆破しやがって!』ってめちゃめちゃ怒ってるんですよ」
旅は観光して終わるわけではなく、現地の人たちを助けたいという思いも強くあった。裸足で暮らしているアフリカの人たちに草履を履かせたいと思えば、たくさんのゴム草履を抱えて行った。日本製の時計や電卓を大量に持って行って、配ることもした。

海外旅行に行かなくなって10年ほど経つけど、スズ子さんには元気なうちに行きたい国がある。ひ孫がウィーン少年合唱団に所属しているので、コロナが明けたら、その歌声を聴きにオーストリアに行きたいと思っている。
海外旅行に使ったお金は「家2軒分くらい」。スズ子さんは家を建てる代わりに、働いて貯めたお金を、好奇心と人生を楽しむためにすべて使ってしまった。僕ら凡人のようにお金や財産に対する執着が、スズ子さんにはないのだ。
95歳のスズ子さんにエンディングストーリーを聞いてみた。
「考えてない。まだ死のうと思ってないから。毎日毎日ピザ焼いて、明日死ぬかなんて思って生きてないから、大丈夫大丈夫」
まだ来ない明日を憂えるのではなく、今を楽しく生きる。明るくポジティブに。95歳になっても元気な理由は、きっとそこにあると思う。スズ子さん、100歳になっても元気てんこ盛りのピザを焼いていてください!

トミーナと共同商品開発したピザが発売開始!

GOOD EAT CLUBは「愛すべき食を未来につなぐ」ことが大きなテーマ。
まだこのサービス名すら決まっていなかった頃、毎日のようにみんなでその構想を語り合っていた。そして僕にとっての「愛すべき食」はなんだろうと問いかけた時に、スズ子さんが焼くトミーナの海鮮ピザが真っ先に頭に浮かんだ。チームの仲間を豊洲のトミーナに連れて行くと、みんなも感動してくれて、嬉しかったなあ。
共同開発が決まってからは、いろいろと大変だったんだけど、完成した商品はスズ子さんが「お店でこのまま出せば」というほどの出来!
お店と同じく具材には惜しみなくシーフードが使われているので、1口食べた時の口福感がたまらない。自宅の冷凍庫にトミーナのピザをストックできる贅沢! もちろん僕は常備していて、家族や友人と幸せな食卓を囲んでいます。
GOOD EAT CLUB限定の商品。是非一度ご賞味あれ!
魚介から出るジュースを受け止める生地は、水分の多いナポリ風では頼りない。手で持って頬張るには、適度な硬さともっちり感のバランスが大切だ。開発に最も苦労したという生地のおいしさもぜひ味わってほしい。